ファッションとは、服飾における流行,または服飾そのものを指す。
フランスではモード mode ということばを使っている。
ダイアナデマーリーは,ファッションをつくりだしていく要因として,人間の競争心と新しいものへの好みをあげている。
ルネサンスから18世紀まではファッションは王侯貴族のものであった。
消費文化が栄え,F. ワースのようなファッションデザイナーの先駆者があらわれた。
それまでコルセットによって,胸とお尻が出た S 字形の不自然な体形を強いられてきた女性が,コルセットを脱ぎ,立つようになり,着やすく,動きやすい服が求められるようになったのである。
第1次世界大戦後,女性は社会に出てファッションに決定的な影響を与える。
20年代に入ると,ほっそりした直線的なデザインが好まれ,スカートも短くなり,スポーティになる。
ファッションを発表し,それがすぐさま世界中に伝えられるというシステムが確立されるのは20年代になってからである。
さが1年ごとに違うという,サイクルがこうしてあらわれる。
局面があらわれるのは第2次世界大戦後の1950年代である。
この時期に,マーケットが形成され,ハイファッションとヤングカジュアルファッションとに分裂し,またオートクチュール(高級注文服)とプレタポルテ(高級既製服)が二重化してくる。
新しいものを追い求めてきた現代ファッションは,行き詰りをみせ,みずからの歴史をふりかえろうとしている。
ファッションも,総合的に研究されるようになってきた。
衣食住は、私たちの生活にとって欠かすことができない。
そのうちの「衣」は、時代の変遷や民俗の文化の違い、性別の違い、世代の違い、境遇の違いなどによって
さまざまである。
花の種類を見ても、タンポポやチューリップ、あやめや松葉牡丹などのようにそれぞれの
美しさがあるように、人はファッションによって、自分を表現し、自分という花を咲かせていくこともできる。
衣服はその意味で、たんなる体を覆うものというような域を越えて、自分を自分らしくしていくための大切な
道具であるということもできよう。
日本では服装の西洋化が広まっているが、その直接的な要因は1858年の日米修好通商条約だとする説がある。
それによると、この条約により各地の港が開かれ、役人や通訳などの直接外国人と交渉をする立場の人間を中心として、服装の西洋化が広まっていくことになる。
なお、1543年に種子島へポルトガル船が漂着した時から鎖国までのしばらくの間にも、一部の大名などに贈呈されるなどして、少数ながらも西洋の服飾は流通しており、江戸時代末期には長崎の出島などでは特別珍しいものではなかった。
1864年には、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府が、その時の軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。
日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされる。また、断髪令により髪型も従来の髷から散切り頭となった。
その後しばらくは、小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになり、1871年(明治4年)に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化することになる。
1923年(大正12年)の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになる。
1927年(昭和2年)9月21日には、当時の銀座「三越」において日本国内初のファッションショーが開催される。これは一般からデザインを募ったファッションショーでもあった。
また、日本橋にあった「白木屋」デパート(旧・東急百貨店日本橋店の前身、現在の「コレド日本橋」)で発生した大規模火災で、やはり和装の人々に被害が多かったことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加し、更にそれにならう形で、大衆の服装の洋式化も徐々に広まっていった。
1930年代後半から1940年代前半にかけては、戦時体制により繊維・衣服の統制が極端に進み、さらに百貨店自体の売り上げが低迷した時期でもあった。
1945年に衣料切符制度がとられ、国民服と呼ばれる統一規格の洋服が配給され、数少ない配給衣服の着用での生活を余儀なくされる。絶対量が少なかったため、和服をもんぺに作り替える者も多かった。
戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカなど連合国からの援助に頼ることになった。食料など様々な物資不足はもとより、衣服も不足し闇市でも入手できない立場の大衆は、1948年から GHQ の放出衣料による古洋服の着用を始める。戦争からの開放感もあり、「占領軍ファッション」として中古アメリカ衣料への傾倒が起こり、戦後初めての流行感覚が生まれた。
ナイロンをはじめ化学繊維の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは1951年頃である。日本の繊維産業はすべて手探りの状態から、ビニロンやテトロン(ポリエステルの商品名)、レーヨンなどの合成繊維の開発、製造を始めた。
1953年(昭和28年)には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。
1958年(昭和33年)には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。しかし、一般には修繕した継ぎのあたった衣服は、家庭での普段着や作業着にまだ多く目につく時代だった。
オートクチュールの中にプレタポルテ(高級既製服)の部門を開き,その中の作品と既製服店のロディエのスカートなどを組
み合わせて使うことを発表し,プレタポルテの勃興する契機をつくった。さらにディオールの死(1957)を境として,プレタポルテが強く進出することになる。しかしこれは従来の既製服とは異なり,ただ仮縫いのない,すぐに着られるよう用意され
ている服という意味であった。こうして年2回のオートクチュールのショーのほかに,オートクチュールの中にできたプレタポルテの部門とデザイナーのプレタポルテがいっしょに年2回のショーを行うこととなり,計4回のショーが行われることとな
った。
作品の発表に際して,生きた人間に衣服を着せて観客に見せるようにしたのは,19世紀後半に活躍し,オートクチュールの基礎をつくった C. F.ワースであった。それ以前はスタイル画を展示したり,人形に衣服を着せて展示したりしていた。
ワースは新作の服を妻に着せ,競馬場や公園,避暑地,劇場などを歩かせて披露し,ファッションモデル(フランス語ではマヌカン mannequin)の基をつくった。
日本で初めてファッションショーの名で行われた催しは1927年9月の三越染織逸品会で,30年には上野松坂屋,34年には資生堂がビューティファッションショーを開いた。第2次大戦後は48年から再開され,翌年結成された日本デザイナークラブが第1回のショーを50年に行った。
当時のモデルはキャバレーの踊り子や女優であったが,51年毎日新聞社の募集で,初めて職業モデルが誕生した。このときに選ばれた伊東絹子が53年のミスユニバースコンテストで3位になり,以後ファッションモデルが脚光を浴びることとなった。そして多くのデザイナーの輩出とともにファッションショーも普及した。
フランスでは最初,モデルが衣装の番号を右手に持って,無言のまま客席の間を歩いていたが,日本では舞台の上を歩かせ,音楽や説明をつけた。53年3月には《ハーパースバザー》誌の記者 A. ラピエールと,日仏合同ショーが東京会館で開かれた。
衣服や服飾品だけでなく,化粧品,靴時計などの身の回り品,家具,インテリアなども含めてファッション産業とされる場合もある。
ファッション産業の代表は,衣服を製造,販売するアパレル産業である。
以下アパレル産業は、
織物生産中心で展開され,アパレル分野が繊維工業のなかで重要な位置を与えられたのは,昭和30〜40年代あたりからにすぎない。
原糸や織物生産部門は色彩を強め,ファッション産業としてのアパレル産業が繊維工業のなかで比重を占めてくるようになった。
レナウン,オンワード樫山など会社をはじめ,売上高数百億円を超える大手アパレルメーカーが数多く出現しているが,その多くは合繊や織物などの製造分野でなく,卸小売分野から出たものが多い。
ため,最近では若手人気デザイナーを中心としファッションを企業が急速に台頭し,企業規模も既存の中堅企業に匹敵するものがかなりでている。